純文学

Strawberry Statement いちご白書

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1960年代は米国に端を発して日本はじめ世界が2019年の香港のようにスチューデントパワーのデモの嵐の時代だった。日本の若者は何に怒りを覚えたのか。60年安保闘争である。日比谷公園、国会周辺を埋め尽くす群衆、デモの混乱で東大生の樺美智子さんが死んだ。私は1953年生まれ、小学一年だった。知る由もない。日米安保法案は自然成立し岸内閣が総辞職した事をその後に日本史で学んだ。米国では泥沼化するベトナム戦争反対の嵐が吹き荒れた。1963年6月11日に戦争に抗議して焼身自殺したベトナムの僧侶の事が忘れられない。私は9歳だった。1969年3月30日、パリで一人の女性が再び抗議の焼身自殺、その三か月後には反戦歌・フランシーヌの場合が発表された。私は当時、中三。今でも時々は歌う。

さて本題、米国はコロンビア大学の学生ジェームズ・クネンが書いた反戦ノンフィクションが Strawberry Statement・いちご白書。1970年に同名で映画化された。ただし前年に私は受験校・岐阜県立斐太高校に進学した。だから読んだのは受験参考書だけ。従って白書を知る由もない。
The Strawberry Statement (1970) Official Trailer - Bruce Davison, Kim Darby Movie HD


しかしながら映画に流れた音楽は覚えていて、懐かしい。ビートルズの Give Peace A Chance も採用されていて、講堂に立てこもった学生たちが合唱する。
Buffy Sainte-Marie - The Circle Game


私が決して忘れられないのが70年代安保闘争である。あの忌々しい連合赤軍の内ゲバ・リンチ事件は1972年・高校三年生の三学期、まさに大学受験のカウントダウンの時に起きた。なんと浅間山荘事件は受験日の数日前である。流石に入試もさることながら連日の報道が気になってしかたなかった。無事に名古屋大学医学部に現役合格できたが、教養部では案の定、学生運動の嵐の後であった。ただし暇な時間があればバイトをして学資を稼ぐのが人生の私には無縁の運動であった。教養部は英語とドイツ語、シェークスピアとゲーテの原著を読み語学に全力を尽くした。純文学にもはまってしまい、新潮文庫を数メートル読んだ。

教養部を終了し、1974年から医学部の講義が本格的に始まった。高2からの夢、米国に渡り医師として働く事、を叶えるために自由な時間は洋書はもとより、英紙、短波放送等、全て英語の勉強に充てた。お金がかかるから映画は観る事が出来なかった。さて、1975年夏、私は22歳で大学生活の真っ只中にラジオはじめ、街に以下の歌が流れ始めた。私と同学年である希代の天才シンガーソングライター・荒井由実だが、いちご白書を反戦歌ではなく青春のラブロマンスに変えてしまった。ただし、就職が人生の目標非ざるを得ぬ苦学生は、それをむしろ素直に受け入れた。


1978年に医学部を卒業したが(24歳)、ひとかどの医師になるには学業成績以上に重要な事がある。質の高い実務経験を積む事である。つまり、教育機会を与えてくださる大学の人事に逆らわない事。医師の世界は関連病院での武者修行が極めて長く厳しく忙しく、晩婚が当たり前の超スパルタ徒弟社会、プラグマチズムの世界なのである。卒後の四年間は愛知県は三河地方の名古屋大学の基幹病院・安城更生病院(山崎院長)にて無我夢中で働いた。そして医師としての米国留学資格、ECFMGに合格した。合格率は3%だった。医学部入学来、8年目にして第一目標を達成し、夢に大きく近づいたのである。勢いづいて何通も米国の病院へ手紙を書いた。然し就職先が見つからない。J1ビザの壁は厚く、夢を諦めかけた。

そんな中、1982年(28歳)に大学が高山市の久美愛病院への転勤を打診してきた。母校・斐太高校に隣接する名大の北の橋頭堡である。故郷に錦を飾れ・指定席で院長を目指して定年まで働け、という有難い天の声である。納得の人事に留学の夢は迷わず封印し、直ちに院長の政木先生の元へ挨拶にお伺いした。続いては満を持して意中の地元女性と人生で初めてお見合いをした。ところが蓋を開ければ異例の辞令、名大の最重要拠点病院・名古屋第二日赤(富永院長)に栄転という大抜擢。思わぬ白羽の矢に戸惑い悩み苦渋の決断で求婚を断念した。新社会人になられたばかりの先様の御気持ちが如何ばかりだったでしょう、ご多幸を祈るばかりです。つまりは出世街道まっしぐらとは言え組織の歯車にすぎなかった私は新赴任先で独り、再び仕事に忙殺された。そして細やかな我が人生とは言え忘れ得ぬ思い出、耳鼻科医の才女、森川美子との運命的な出会い、互いに一目惚れ、30歳を前にしていた二人は翌月には婚約、半年後に結婚、翌年に長女が生まれた。再び心に灯った留学の夢を新妻は心から応援した。

豈図らんや私は1983年秋、卒後五年半の人事で晴れて同期のエースとして母校の大学病院に勤務となった。第一内科の祖父江教室である。寸暇を惜しんで診療、並びに心臓核医学という新分野に心奪われ学会活動に明け暮れ、複数関連病院の仕事も兼務し、毎日が分秒刻みで昼も夜もない大学病院の若手。夢を追い続けた。毎年、米国学会で発表した努力が実って心臓核医学の祖・ハーバード御出身のエドワード・カー教授との運命的な出会いにすら恵まれた。それどころか1985年には会心の一撃、世界で三人、本学初の米国メルク財団奨学生の栄誉にも輝いて、大学を首席で卒業の妻に一矢を報いたのである。遂に悲願達成、条件が全て揃い、家族は米国ビザを取得して1986年、私は33歳の夏にメルク奨学生としてカー教授の元に留学した。彼は私の人生の最大の恩師である。石の上にも16年かけて高2からの夢を実現し、4年かかったが妻への誓いも果たした。一方の妻も長女の子育てをしつつJ2ビザで耳鼻科医として市中の教育病院に勤務し、実は私以上に輝いたニューヨークでの日々。二年半後、1988年末に夫婦と長女は数えきれない思い出を抱えて日本に帰国し、父母は共に古巣の大学に復職し、次女が生まれて家族は四人になった。

遅まきながらの我が青春の総括が1990年に名鉄病院に赴任し山田和生院長(名大名誉教授、循環器)の直弟子となった事。大学人事によりキャリアを重ね、学位も取得し、周りからやっと一人前扱いしてもらえた瞬間である。山田先生にも本当に可愛がっていただいて、私は一生、先生には頭が上がらない。既に38歳、故郷飛騨を離れ20年の歳月。幸せに満ち満ちた日々。しかし私は大学人事には感謝しつつも・・何か違う、そう青春よもう一度、自ら切り開く人生・・大学のしがらみを解いて順風満帆な人生の全てを捨てて無名の町医者として新規開業を突然に決意、呆れる妻が巻き添えのはめに。1991年に何の縁か名古屋の北30キロの可児市で開業、わが庵(いほ)は都のたつみ鹿ぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり。山田教授からは立派な開業祝を頂戴した。つまりは、なんとか円満に退職できたのである。

振り返れば三十年以上の市井の医師夫婦ですが、実に二万六千人近い患者様とのご縁でした。昼も無く夜も無く働かせていただきました。多忙の一齣になんとお礼を申し上げてよいのやら感謝の言葉もありません。そればかりか、同級生の大半が院長・教授職等から退いた中でも、私は定年が無く無名ながらも医師として今なお黙々と働かせていただいている。また歴史は巡り、共に母のDNAを継いだらしく、銀も金も玉も何せむに二人の孝行娘は、既に母校を去って久しい両親に代わって、共に同大学病院で活躍する医師である。書くまでも無いが敢えて、二人の義理の息子も長身白皙(はくせき)の優しい医師で第一線の専門医にて後身を指導している。私は息子達とは男同士の話が出来て、娘達以上に愛おしくてしかたない。しかも最近は元気すぎる孫達の育児が妻と私の仕事になりつつあり、平凡ながらも人間としての幸せを感じる事が出来て感謝の日々である。夫婦はカラオケで「『いちご白書』をもう一度」を歌うが、お互いが何の屈託も無く独身の頃に戻れる事もありがたい話である。ひとつ年下の医学生であった妻の美子も実は当時から荒井由美の熱烈ファンだった。

私は今日まで休みなく前ばかりを見て生きてきた。やりたい事には全て挑戦し、挫折もあったが耐え抜き、常にそれなりの結果を出してきた。人生に何の悔いも無い。とは言え、夫に献身的な妻や沢山の人に助けられて自分は実は運がよかっただけです。そんな今までが無性に懐かしい。明日ありと思う心の仇桜、人生が残り少ないはずであるが、その全てを最愛の妻に捧げたいと思う今日この頃。一に家族、ニに仕事、三に趣味が正しい人生の過ごし方かと思いますが、ただし、ゼロに健康です。健康なくして人は家族を守れません。皆様へ、家族を守るには、まずは自身の健康です。主治医のいいつけを守って素敵な患者さんを演じてくださいね。ある町医者の人生白書。

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